「センス・オブ・ワンダー」を伝え続けるレイチェル・カーソン研究者
上遠恵子 さん

もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」を授けてほしいとたのむでしょう。
レイチェル・カーソン著 上遠恵子訳『センス・オブ・ワンダー』より
自然の神秘さや不思議さに目を見はる感性を表す「センス・オブ・ワンダー」という言葉は、いまでは環境教育や子育ての場でも広く知られるようになりました。
レイチェル・カーソンの著書の翻訳をとおして、この言葉を日本に伝えてくださったのが、今回メッセージをいただいた上遠恵子さんです。
少女時代に戦争を経験し、戦後の混乱の中で生物学の道へ進み、長年にわたりレイチェル・カーソンの思想を研究・紹介してこられた上遠さん。
世界各地で戦争や分断が続くいま、あらためてレイチェル・カーソンについて知り、「センス・オブ・ワンダー」を共有していくことが、平和な世界への糸口になるのではないか、という思いがやみません。
これまでの歩みとともに、カーソンのメッセージと、上遠さんがいま次世代に伝えたい思いについて、お話をうかがいました。
(敬愛をこめて「レイチェル」と呼ぶ上遠さんに倣って、本稿も以下ではレイチェル・カーソンのことを「レイチェル」と表記します)
●上遠恵子(かみとお けいこ)さんプロフィール
東京都出身、東京薬科大学卒業。研究室勤務、学会誌編集者を経て、レイチェル・カーソン研究者・エッセイスト・レイチェル・カーソン日本協会会長。訳書に『レイチェル・カーソン』『海辺』『潮風の下で』『センス・オブ・ワンダー』『平和へ』ほか、著書に『レイチェル・カーソン その生涯』『レイチェル・カーソンの世界へ』『レイチェル・カーソン いまに生きる言葉』、共著に『いのちの樹の下で エンデとカーソンの道を継ぐ』『センス・オブ・ワンダーを語る』、監修に『13歳からのレイチェル・カーソン』など多数。
「死なないでね」があいさつだった時代に、自然をみつめて
1929年、東京で生まれた上遠さんは、豊かな自然が残る町で、昆虫学者の父と、自然の楽しみ方をおしえてくれる母のもとで育ちました。
フクロウの声に耳をすましたり、牧野富太郎博士主宰の植物同好会の観察会に参加したりと、自然に親しむ子ども時代を過ごします。
けれども、その背景は世界恐慌が起こり、日本は満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争へと突き進む時代でした。
当時の上遠さんにとって、「戦争」はとくべつな出来事ではなく、「日常」の一部だったといいます。
「平和な時代を知らなかったんです。大正デモクラシーの雰囲気を知っていればちがったでしょうけれど。そういうものだと思って育ってしまったんですね」
男の子たちは兵隊ごっこをして遊び、町からはキャラメルやチョコレートといったお菓子が姿を消していきます。おしゃれを楽しむこともできず、いつも着古しのもんぺや作業服。
空襲が激しくなると、夜でもすぐ防空壕に入れるように、寝間着ではなく服を着たまま眠る日もありました。
「別れるとき、ふつうのあいさつは『またね』でしょう。でも、私たちの時代は、ちがったんですよ」
女学校では、友人とのあいさつで「死なないでね」と言葉を交わすこともあったといいます。
今日別れたら、明日また会える保証はない。
80年前の日本では、そんな死ととなりあわせの時代を、上遠さんたちは生きていたのです。
当時の思い出のうち、とくに印象的な出来事がありました。
授業がほとんどなくなって、学校は工場となり、学生たちは軍需品の検査作業をさせられていました。
けれども、戦況が悪化すると材料も不足し、待ち時間ばかり。
そんなとき、上遠さんは本を読んでいました。
すると、監督役に見つかって、配属将校のところへ連れていかれることに。
「なぐられるかもしれない」とふるえたそうです。
ところが、将校がとりあげた本を見ると、書名は『海と海辺の生物』。
将校は、怒る理由も、ふりあげたこぶしの持って行き場もなく、ことなきを得たといいます。
戦時下でも心をなぐさめ、上遠さんを守ってくれた生物の本。
のちに出会うレイチェルが海洋生物学者だったことを思うと、このときから不思議な縁がつながっていたようにも感じられます。
終戦間際には、東京大空襲も目撃しました。
戦時中は女学生も学校に泊まって夜の番をする宿直があり、上遠さんは1945年3月10日のその日、丘の上にあった学校の宿直室で、当番にあたっていました。
夜中に空襲警報のサイレンが鳴り、深川方面の空が真っ赤に燃えているのが見えました。その光景を、いまも忘れられないといいます。
通っていた学校は難を逃れたものの、翌朝は路面電車が止まってしまったため、歩いて帰ることになりました。たくさんの人が歩いているのに、話し声ひとつなくひっそりとして、みんなうつむいて黙々と進んでいたそうです。
「あの行列は不気味でしたね」
そんな灰色の戦争の記憶の中で、上遠さんが今も鮮明に覚えている風景があります。
地元の駅前の桜並木です。
「戦争中もね、花は咲いてくれるから」
学校や町が戦争一色になっていく中でも、春になれば桜は変わらず花を咲かせます。
夕方、学校での作業を終えて帰る道にひろがる満開の桜。
そのうつくしさに、どれほど心をなぐさめられたことでしょう。
「本当にほっとしたんですよ」
戦争のさなかにも、自然の営みは変わらない。
そして、人の心から希望まで奪うことはできない。
語られた思い出は、まさにその証明のようでした。
また、空襲の焼け跡が広がる町を歩いていたとき、焼け焦げた木の幹に、鮮やかなオレンジ色のものが現れているのを見つけたことがあったそうです。
不思議に思った上遠さんは、当時の生物の先生にたずねました。
すると先生は、その正体を「アカパンカビ」と教えてくれました。山火事や火災のあとに現れる菌類のひとつということでした。
多くの人が焼け跡を見て絶望していた時代に、少女の上遠さんは、そこに生まれる生命をみつめていました。そして、その疑問に答えてくれる先生がいたことにも救われる思いがします。
のちにレイチェルと出会い、「センス・オブ・ワンダー」を日本に伝える上遠さんの原点は、すでにこの頃に育まれていたのかもしれません。
戦争は多くのものを奪いましたが、それでも、自然への好奇心や、学ぶよろこびが失われることはなかったのです。
進学をあきらめなかった先に待っていた出会い
1945年、上遠さんが16歳のときに、日本は敗戦を迎えます。
けれども、戦争が終われば、すべてがもとにもどるわけではありませんでした。
上遠さんたちの世代は、戦後の大きな制度改革に巻きこまれます。
新制中学・高校・大学へと教育制度が切り替わり、本来なら女学校を卒業して進学するはずが、早くに追い出されて、別の学校へ通わなければならなくなりました。
経済的な事情から、進学をあきらめた同級生も少なくなかったといいます。
そんな中でも、上遠さんは生物学への思いを手放しませんでした。
「幸い、父も母も、勉強しなさいと言ってくれる人でしたから」
幼い頃から自然や生きものに親しみ、戦時中にも海の生物の本を読んでいた少女は、大学の研究室へ進みたいという願いを温め続けていたのです。
けれども当時、女性の進学の道は、いまほど整えられていませんでした。
「女の人が理系へ行くといえば、薬剤師かお医者さんくらいしかなかったんですよ」
実際、一時は医師を目指そうと考えたこともあったそうです。
そこで支えとなったのは、女学校時代に出会った生物の先生の存在でした。
焼け跡のアカパンカビについて教えてくれた女性。
その先生の後輩になりたいという希望をつらぬいて、上遠さんは生物学を学べる大学へ進みました。
「いま考えると、あの先生との出会いは大きかったですね」
レイチェル・カーソンの伝記を読むと、幼い頃に自然の世界へ誘ってくれた母や、進学先で出会ってその指導に憧れたスキンカー先生の存在が、とても印象的に描かれています。
上遠さんにとっても先輩女性の姿が、貴重な道しるべになったのではないでしょうか。
努力のかいあって、卒業後は念願の国立大学の研究室に勤務することになりました。
ところが、当時の日本の研究の世界は、戦後になっても、男性中心の空気が色濃く残っていました。
「いまでは考えられないでしょうけど、大学に女子専用トイレもなかったんですよ」
研究室に入っても、女性であること、私立大学出身であることによる壁を感じることが少なくなかったといいます。
そこで気持ちを切り替え、植物ホルモンや農薬など専門的な植物科学の学会誌の編集に携わることに。
その先に、レイチェルとの出会いも待っていました。
1970年、勤務先の教授とともに、『サイレント・スプリングの行くえ 自然の保護と人間の生態』という本の翻訳に携わることになったのです。
レイチェルが環境汚染に警鐘を鳴らした『沈黙の春』、その本が巻きおこした反響の大きさとひろがりを伝える内容でした。
『サイレント・スプリングの行くえ 』
フランク・グレアム・ジュニア 著
田村三郎・上遠恵子 訳 東京同文書院刊

上遠さん自身は、じつはその前の1953年頃にも、レイチェルの最初の著作『われらをめぐる海』に触れていました。けれども、当初はそれほど強い印象を受けたわけではなかったそうです。当時話題になっていた『コンティキ号漂流記』の方がおもしろく感じられたといいます。
ところが、思いがけない共通点から、レイチェルへの親近感を深めることになります。
レイチェルは亡くなった姉の娘、自身の姪にあたる子ども二人を引き取って育てました。のちには、その娘の息子ロジャーも養子として育てています。
一方、上遠さん自身もまた当時、親類の残した子どもたちを家族としてむかえ、その成長を支えることになったのです。
「似ているね、と大学の教授に言われたんですよ」
生物の研究者としてだけでなく、一人の女性が家族を支えながら自らの道を歩む姿にも、どこか重なるものがあったのでしょう。
戦争の時代にも育まれた自然へのまなざしと好奇心。
憧れの師との出会い、研究を伝えることへの熱意、子どもたちとの暮らし。
そんな共通点と共感が、上遠さんとレイチェルを結びつけていったのではないでしょうか。
「不思議なめぐりあわせ、おもしろい人生だなと思いますね」
その後、『サイレント・スプリングの行くえ』の著者に問合せを送ったことがきっかけで、レイチェルの伝記が出版されることを知り、原書を入手して、独自に翻訳をはじめます。
それが『生命の棲家』(原題 House of Life、のちに『レイチェル・カーソン』と改題)です。『沈黙の春』の執筆を支えた編集者ポール・ブルックスが、レイチェルの生涯と著作をまとめた作品でした。
この訳は、大学の教授のつてで、出版の道も開けました。
「こわいもの知らずでしたね」
戦時下では、英語を学ぶ機会も限られていたために、七転八倒したといいますが、この翻訳への挑戦が、のちの『センス・オブ・ワンダー』にもつながっていきました。
<つづきは後編へ>
