緑と共生する空間のしかけをつくるランドスケープアーキテクト
鈴木雅和 先生
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ランドスケープアーキテクトとは?
団地や公園の緑地設計、植物園の構想と展示、梅林の再生、コミュニティガーデンづくり、花祭りのプロデュース、そして被爆樹木の研究。共通点は「植物」だけで、これらのすべてを手がける職業があるといったら、それはいったいどんな仕事なのかと、想像がつかない方も多いでしょう。環境をデザインする「ランドスケープアーキテクト」――日本語では「景観設計」と訳されるその仕事を50年にわたって最前線で手がけ、ひろげてこられた希有な専門家が、今回インタビューをお願いした鈴木雅和先生です。
当初は、被爆樹木の特徴を発見し伝えていらっしゃる研究者としてのお立場から、平和へのメッセージをいただくつもりでした。ところが、研究に至るまでの道のりを伺ううちに、植物と設計にまつわるお仕事の幅広さと奥行きに驚嘆・感動し、より多くの方に知ってほしいという思いにかられました。そのお仕事の歴史をさかのぼって全体像から、緑の空間づくりにこめられたものをお伝えできればと思います。
●鈴木雅和先生プロフィール
東京都出身。1975年、東京大学農学部農業生物学科卒業。日本住宅公団において造園設計に携わり、東京大学農学部助手を経て、農学博士を取得。1992年より筑波大学芸術専門学群および筑波大学大学院人間総合科学研究科において環境デザインを指導。筑波山梅林の再生をはじめ、地域の緑を活かした再生プロジェクトを数多く手がける一方、独自の被爆樹木研究により、それらを「生きた被爆遺産」として位置づけ、その価値をひろめている。
現在、筑波大学芸術系名誉教授。東京都環境審議会委員、武蔵野市環境市民会議委員長、日本ナショナルトラスト理事を務める。

大学での偶然の出会いをきっかけに、緑とかかわる道へ
――学生時代、もともとは物理学をめざしていらしたそうですね。
はい。1970年代の当時は公害が深刻な状況で、光化学スモッグのような大気汚染が社会問題となっていました。そうしたなかで、自分がこれからとりくむことが本当に社会の役に立つのか、確信が持てずにいました。
そんな折、偶然出会ったのが造園設計でした。私は「誰にも迷惑をかけることのない仕事をしよう」と考え、専攻を変えました。緑をつくる仕事は、誰からも否定されるものではないだろうと考えたのです。ある意味、科学技術に対する懐疑心の裏返しだったのかもしれません。卒業論文のテーマは「植物の亜硫酸ガスに対する抵抗性」でした。
――そもそも、「環境デザイン」という分野は、先生の学生時代からあったのですか?
はい。当時の東京大学には、代々木公園を設計された池原謙一郎先生がいました。その先生の授業で、公園の設計課題にとりくんだりして、設計の基礎を学びました。日本で最初に環境デザインという分野を開いたのは筑波大学ですが,池原先生はその初代の教授の一人です。私はいわば「二代目」にあたる立場になりますね。
――その先生との出会いが、道を選ぶきっかけのひとつになったのですね。公園の設計をしたいという思いから、卒業後は住宅公団へ。
はい。当時の住宅公団は、建築だけでなく造園の近代化も先駆的に進めていました。団地内の小規模な公園から、付随する大規模公園まで、さまざまな設計に携わる機会がありました。もともと写真を撮ることが好きだったこともあり、造園設計はやり始めるととても面白く感じました。自分が描いた図面が実際の形となるのは、科学技術の分野で新しい物質を発見したり、新しい機械を作り出したりすることにも通じる魅力がありましたね。

▲東大駒場にて、21歳のころ
建築デザインとランドスケープデザインのちがい
―― 造園設計では、お仕事がとても大きな「作品」になりますね。
確かにそうですが、建築とランドスケープデザインには大きな違いがあります。建築は誰が設計したかが明確に残りますが、ランドスケープデザインは、その名が表に出ることはほとんどありません。特に昔の庭園などは、誰が作ったのかわからないものも多いのです。
また、建築物は完成後から徐々に劣化していきますが、ランドスケープは完成後も成長し、変化し続けます。設計者は最初のきっかけを与えるだけで、実際の空間は植物が作り出し、進化していくのです。その変化をすべて予測し、記述することは不可能です。設計者自身でさえ、5年後にどのような姿になるのかを完全には把握できません。
つまり、「すべて自分がつくりあげた」と言い切ることができる作品は存在しないのです。それがランドスケープの特長であり、誇りでもあります。多くの人の協力がなければつくれないし、決して個人の作品にはならない。それは、ランドスケープや園芸に関わる人々に共通する心持ちではないかと思います。
住宅公団で手がけた緑の仕事

―― 住宅公団では、新人のうちから大規模なプロジェクトに携わられていたと伺いました。
入社2年目に、住宅公団としては初の「立曳き移植(たてびきいしょく)」の設計を担当しました。団地造成予定地にあったシラカシの大木を40メートル移動させるというものでした。この木は、「伐採すると祟りがある」とのうわさがあったため、単なる移植以上に慎重な対応が求められました。樹高15メートル・重量50トンという巨木の根を縄で保護し、道板とコロを用いて慎重に移動させました。その後調べたところ、この木は現在も団地のシンボルツリーになっているそうです。
▲当時のシラカシ立曳き移植現場の写真。大規模な工事のようすが伝わってきます
また、練馬区の都立光が丘団地では、公園通りに並木を計画し、国鉄(かつての日本国有鉄道)本社前にあったイチョウ並木を移植しました。東京都に協力して、夜間に信号機とガードレールを一時撤去して、大型トレーラーで移動させる大規模な工事でした。
――社内の誰も手がけたことのないそうしたお仕事に、どうやって取り組まれたのですか?
当初は十分な予備知識があったわけではありません。しかし、現場で学ぶことが多く、「やるしかない」という状況の中で自然と対応力が養われました。
人間は、必要とされ、責任を与えられたときに大きな力を発揮するものです。さらに、当時の公団には「鬼軍曹」と呼ばれる先輩技術者がいて、具体的な手法を逐一教えるのではなく、仕事に対する姿勢を学ばせてくれました。
研修期間は1〜2か月程度でしたが、その後は他の職員と同様に業務をまかされました。1年目から「自分の担当区域の設計は自分でする」と主張して、実際に図面を描いて工事発注まで行いました。当時の公団は、新工法や新材料の導入にも積極的で、提案すれば上司も尊重してくれて、挑戦できる環境が整っていました。
―― 現場からの吸収力と実行力、そして挑戦を励ます職場の風土が、前例になかったことまで可能にしたのですね。ほかにも、特に印象に残っている仕事はありますか。
春になると思い出すのは、町田市の「小山田桜台団地」です。「桜台」という地名の由来から着想を得て、ランドスケープデザインのテーマに「桜」を選びました。団地内のいろいろな空間に、咲き方や色、開花時期が異なる桜を植えることで、長期間にわたって桜を楽しめるよう工夫しました。
当初は50種類の桜を導入しようと考え、特注で苗木を手配しましたが、最終的には40数種類になりました。当時の団地のパンフレットは間取りや交通アクセスの情報が中心でしたが、私はランドスケープのコンセプトも伝えたいと考え、公団では初めて設計費の中でパンフレットのデザインを行いました。
また、尾根緑道の整備も印象深い仕事です。ここはかつて戦車道路として使用されていた場所で、陸軍によって山桜やソメイヨシノが植えられていました。しかし、病気による衰弱が見られたため、一部の樹木を伐採し、新たな植栽を施しました。数年後に訪れると、見事な桜の名所となっていて、地元の方々に野点のお茶でもてなしていただいたときには、設計者として冥利に尽きる思いでした。
独学のデータベース発表をきっかけに研究職へ
―― 1975年、世界で初めてパーソナルコンピュータ(PC)が発売されると、職場で真っ先にとりいれたそうですね。
はい。その最先端技術に魅力を感じて、1980年に自費でPCを購入し、住宅公団で活用を始めました。設計に必要な計算が飛躍的に効率化できました。そして、機能が改良されるにつれ、次々に最新版にのりかえながら、植物のデータベース作りを始めました。
――どうしてデータベースを作ろうと思い立ったのですか?
住宅公団の植栽設計で、常時使用される植物は100種類程度でした。それでも、最初はその種類すら覚えるのに苦労しました。そして、設計の対象となる環境は多様で、山林を造成した場所、埋め立て地、水田跡、市街地など、それぞれ土壌や気候条件が異なります。さらに、建物の北側と南側では日照条件も変わるため、それに応じた植物を選択する必要がありました。つまり、空間を知り、その空間の質を知ったうえで、経年変化も含めて、どの植物を入れるのがその空間にとって最適なのかを考える、そのためには植物を知らなければなりません。
そこで、植物の特性を整理し、コンピュータに記録することで、アシスタントにしようと考えました。植物の特性をデータ化し、当時のカセットテープに記録することで植栽設計の質の向上に役立てる、今でいうデータベース構築のような試みでした。当時は研究という意識もありませんでした。
―― その研究が、結果的に学位取得につながったのですね。
はい。公団の仕事を続けながら、このデータベース研究を発表する機会がありました。それを目に留めてくれたのが、母校の教授でした。発表を聞いた教授は、その場で「論文にまとめれば学位を授与する」と申し出てくださったのです。

▲見せて頂いた手帳。論文のメモが残っています
それがきっかけとなり、私は大学院を経ずに博士論文に取り組むことになりました。サラリーマンとして設計業務をこなしながら、通勤電車の中で論文を書く日々が続きました。
その後、研究に専念できるようにと、教授の計らい で大学附属農場の助手の職を紹介されました。迷うことなく16年間勤めた公団を退職し、新たな環境で研究に打ち込むことにしました。
――この農場に在籍していた間には、板橋区立熱帯環境植物館の基本計画・設計・展示にも携わられたそうですね。「植物館」ですが、地下にはミニ水族館もあるユニークな施設です。
はい。東南アジアの熱帯雨林を再現するために、地下から螺旋状にのぼっていく構造で、水の生きものもふくめて展示しました。当時の公開温室の多くは、熱帯のめずらしい植物を地域にかかわらず収集するもので、環境に関する表現が漠然としていました。それに対して、日本人の生活に影響の大きい東南アジアの熱帯環境に目を向け、マレーシアの動植物に絞って展示することにしたのです。それも汽水域のマングローブ林から板根のあるフタバガキ科の樹木が存在する低地林、食虫植物ウツボカズラや着生ランがいる雲霧林を経て、ツツジ科の低木などによる高地林,そして森林限界に至る植生の垂直分布を、温室と冷室を使って表現しようということになりました。
NHKのスタッフといっしょに標高4095メートルのボルネオ島キナバル山の頂上まで植生の変化を取材し、その結果は温室の構造・展示・植物選択にも反映されました。このときに得た人脈は、のちの仕事にもつながる貴重なものでした。
大学での環境デザインの実践と指導、そして筑波山梅林再生
――筑波大学へ移られた経緯をお聞かせください。
1992年に、もう一人の恩師から筑波大学への着任を勧められました。芸術専門学群の講師として赴任し、環境デザインの指導を始めました。農学から芸術系への転身は大きな変化ではありましたが、これまでの造園設計や研究の経験を活かし、実践を重視した教育を目指しました。
筑波大学では、研究財団を通じてプロジェクトを多数受託し、それらを活用しながら学生を指導しました。環境デザインは、しかけをつくるものです。単に空間を設計するだけではなく、人を動かし、組織を動かし、事業として成り立つようにするまでのプロセス全体を含みます。その説得力をどう磨くかは、なかなか教えられるものではなく、私が実際にやってみせるしかありません。そのため、私は大学の枠を超え、行政や民間との連携を通じて、実践的なプロジェクトを進めました。学生たちは、私の仕事を手伝う中で、行政との関わり方や、実際の設計プロセスを学んでいきます。これは、私が住宅公団で先輩方から教わったことを、そのまま次世代に伝えていく形でもありました。
――そうしたプロジェクトのひとつが、筑波山梅林再生ですね。
はい。2000年、当時のつくば市長から「筑波山の梅林を再生させたい」との依頼を受けました。この梅林は、地域の特産品にしようと、1970年ごろに約3,000本が植えられたものの、長年適切な管理がなされず、枝葉が生い茂って光が地面に届かないほどの過密状態になっていた場所です。図面や樹木台帳も残されていませんでした。
そこで、まずは現状を把握するために、GPSを採用しました。人工衛星からの電波を使って位置を測定するGPSはそれまで、軍事目的で使用されていたものでした、湾岸戦争後に民間利用が解禁されたばかりのタイミングで、最先端のその技術を活かし、梅林全体の樹木位置を正確に測定することができました。
次の段階では、樹勢診断を行いました。過密状態を解消するため、残っていた約1,300本の梅のうち500本を伐採し、適切な間隔で管理できるよう整備を進めました。加えて、観光客向けの展望台や木道の設置を計画し、つくばエクスプレスの開通に合わせて2005年までに整備を完了させました。その結果、紅白の梅が咲き誇る美しい景観が復活し、現在も毎年多くの来場者を迎えています。2012年に,日本造園学会賞(技術部門)をいただきました。

▲満開の筑波山梅林。この風景を守るために、いまも毎年、剪定の検査に訪れるそうです
――農場の果樹園で学んだ経験や人脈が、このプロジェクトにも役立ったとのこと、緑のご縁がつながっていったのですね。
そうですね。最初に意図したり、計算したりしていたわけではなく、自分でもこのような成果を予測はしていませんでした。環境デザインで何を対象にするかは、本人の自由で、私のパーソナリティーから、出会いがつながっていった。それはもう、「呼ばれた」ということかと思います。
この梅林再生プロジェクトを進める間も、国営昭和記念公園の花みどり文化センターの構想や、沖縄県那覇市の首里城公園花祭りのプロデュースなど、環境デザインの力が発揮されるプロジェクトが平行して進められていました。
そして2009年、いよいよ「呼ばれる」ようにして運命的な出会いが訪れます。
<つづきは後編へ>
(手帳以外の画像はすべて鈴木雅和先生提供)